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山田 五十鈴


実はこの当時、山田五十鈴さんと母は非常に貧しい暮らしをしていたということもあり、日活への入所はそうした事情もあったものと考えられます。, 大女優・山田五十鈴(1917-2012)は今日2月5日が誕生日。十代で主演した傑作『折鶴お千』(35溝口健二)『浪華悲歌』『祇園の姉妹』(36同) https://t.co/Q3bJmlHOLy pic.twitter.com/LgAepNErkW, 日活大秦撮影所に入所した山田五十鈴さんは、すぐに「剣を越えて」で人気俳優の大河内傳次郎さんの相手役をつとめました。さらに同じ年に公開された映画「元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻」には新人としては異例の抜擢で出演しています。 「日本映画100年史」(ごま書房新社)、 山田 五十鈴(やまだ いすず、1917年2月5日 - 2012年7月9日)は、日本の女優、歌手。本名は山田 美津(やまだ みつ)。愛称は「ベルさん」。, 戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人である。時代劇映画の娘役を経て、溝口健二監督の『祇園の姉妹』で地位を確立。以来、優れた演技力で数多くの名作に出演した。1960年代以降は舞台女優として活動し、水谷八重子、杉村春子とともに「三大女優」と呼ばれた[1]。また、テレビドラマ『必殺シリーズ』では女元締役を演じて人気を得た。2000年(平成12年)に女優として初めての文化勲章を受章した(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)。これまでに月田一郎、滝村和男、加藤嘉、下元勉との結婚歴がある。女優の嵯峨三智子は月田との間に生まれた娘である。, 1917年(大正6年)2月5日、大阪府大阪市南区千年町(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。父の山田九州男[注釈 1]は新派俳優で、母の律は北新地の売れっ子芸者だった[1][2]。山田はその母の命で、数え年で6歳の時から常磐津、長唄、清元、日本舞踊の稽古を始めた[4]。, 1924年(大正13年)、関西に出稽古に来ていた三世清元梅吉について本格的に清元を習い始める[2]。1925年(大正14年)、父が成美団に参加するため一家で上京して日本橋浜町の旅館に住み、久松小学校に入学するが、人気の落ち込んでいた父が仲間を集めて満州へ巡業に行ってしまい、旅館住まいが困難になったため、本郷区金助町の駄菓子屋の裏店に移住する[2][5]。その後、永田町に2階借りし、母と共に清元梅吉の内弟子となった。1927年(昭和2年)、師匠から清元梅美智の名を貰い、母娘揃って名取となる。後、母と宝塚に移り住み、清元の師匠をやって生計を立てた[6]。, 1930年(昭和5年)、父が日活太秦撮影所所長の池永浩久を知っていた縁で、同撮影所に月給百円という幹部女優並みの待遇で入社[4]。芸名は伊勢神宮の五十鈴川にちなんで山田 五十鈴と決まり[1]、同年に『剣を越えて』で大河内傳次郎の相手役としてデビューした。続いて池田富保監督のオールスター特作『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻』に、新人としては異例の大抜擢で出演した[4]。デビュー1年目の同年だけで15本の作品に出演し、その後も伊藤大輔監督の『続大岡政談 魔像解決篇』、内田吐夢監督の『仇討選手』、伊丹万作監督の『國士無双』『武道大鑑』、山中貞雄監督の『盤嶽の一生』など、一流の監督作品に立て続けに出演[4]。可憐なヒロイン役で人気を集め、日活時代劇のトップ女優となった。, 1934年(昭和9年)9月、日活を退社した永田雅一が第一映画社を設立し、伊藤、溝口健二、鈴木傳明らとともに同社に参加する。溝口監督の『マリアのお雪』『折鶴お千』に主演するが、後者の撮影中に同社に移籍した月田一郎の子を身籠り、翌1935年(昭和10年)3月1日に美和子(後の瑳峨三智子)を出産した[4]。月田と結婚し、出産を機に女優を廃業しようと考えていたが、溝口監督の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』に主演すると、その演技が高く評価され、生涯女優をやることを決意した。同年、第一映画が解散し、新興キネマ京都太秦撮影所に月田とともに移籍した。, 1938年(昭和13年)6月、東宝映画に入社。同社第1作は川口松太郎原作・成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』で、長谷川一夫と三味線弾きの夫婦に扮し、気は強く情にはもろい女芸人気質を好演した[7]。それ以来、『蛇姫様』『昨日消えた男』『婦系図』などで長谷川とコンビを組んだ。そのほか『新篇丹下左膳』シリーズでは丹下左膳役の大河内の相手役を演じ、渡辺邦男監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』ではヒロインを演じた。スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る[7]。1940年(昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った[4]。1942年(昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の滝村和男と結婚するが、1年余りで離婚した[7][8]。, 1942年(昭和17年)、長谷川と共に新演伎座を結成。3月に東京宝塚劇場で菊田一夫作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『姿三四郎』などの舞台に立ち、太平洋戦争末期には軍の慰問にも回った[7]。翌1943年(昭和18年)、花柳章太郎主演の『歌行燈』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った[7]。, 1946年(昭和21年)、豊田四郎監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川とコンビを復活した。次いで衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』に出演し、同時に衣笠とも恋愛関係を結んだ[7]。同年10月、第2次東宝争議が発生。ストに反対する大河内に同調して、長谷川、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、入江たか子、原節子、山根寿子、花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。これが元で翌1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所が創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開された東宝で衣笠監督の『女優』に松井須磨子役で主演した[7]。この頃、妻子ある衣笠と経堂に新居を建て、同棲生活をしている[9][10]。, 1950年(昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した加藤嘉と結婚。共産党員だった加藤の影響で思想的に左旋回し、同年に日映演に加入[注釈 2]。「人民女優」とのレッテルを張られ[1]、レッドパージの対象にもなった。1952年(昭和27年)、加藤とともに現代俳優協会を設立[12]。この頃は亀井文夫監督の『母なれば女なれば』『女ひとり大地を行く』、関川秀雄監督の『ひろしま』など、独立プロ系の監督作に多く出演した。, その間、娘の瑳峨三智子が東映に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。1954年(昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚[4]。その直後に下元勉と結婚するが数年で離婚。, その後は女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『流れる』、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』、小津安二郎監督の『東京暮色』、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』、渋谷実監督の『悪女の季節』『もず』、市川崑監督の『ぼんち』など、巨匠・中堅問わず幅広い作品に出演。この時期だけでブルーリボン賞主演女優賞・助演女優賞をそれぞれ1回、毎日映画コンクール女優主演賞を1回、キネマ旬報ベスト・テン女優賞を2回受賞し、名実ともに映画界を代表する大女優となった。, 1959年(昭和34年)、第4回新劇合同公演『関漢卿』に招かれて滝沢修と共演。その後映画出演の傍ら舞台出演が多くなり、1962年(昭和37年)に東宝演劇部と専属契約を結んでからは、活動の場は舞台中心へと移る。以後、商業演劇の看板役者となり、杉村春子・水谷八重子とともに「三大女優」と呼ばれた。代表作の1つである『たぬき』では立花家橘之助を演じ、浮世節を弾き語りして評判を得た。また、『津軽三味線ながれぶし』では三橋美智也と三味線の連れ弾きを披露している。そのほか、『香華』『華岡青洲の妻』『淀どの日記』『愛染め高尾』『太夫さん』など数多くの舞台に立った。1987年(昭和62年)には、ファン投票によって主演作10作を選定し、「五十鈴十種」と名付けた。また、若手の邦楽家や役者に三味線やお囃子を発表する会「東宝たぬき会」を立ち上げ、中村又五郎と共に指導を行っていた。, 一方、1957年(昭和32年)からテレビドラマにも出演するようになり、大河ドラマ『赤穂浪士』では大石内蔵助の妻りくを演じた。必殺シリーズはテレビドラマでの代表作となり、いずれも三味線弾きの人物を演じた。『必殺からくり人』に始まるからくり人シリーズでは花乃屋仇吉や泣き節お艶、『必殺仕事人』ではおとわを演じた。『新・必殺仕事人』以降の作品では、三味線の撥を武器にする女元締のおりくを演じ、当たり役とした。同役では『必殺仕事人V』まで出演し、劇場版2作にも登場した。実に10年間に及んだシリーズ出演のきっかけは、娘の瑳峨三智子が『必殺必中仕事屋稼業』にゲスト出演した回を視聴し、その映像美に感銘して朝日放送の仲川利久プロデューサーに電話で出演を希望したことというエピソードが、仲川と山田誠二の共著『秘録必殺シリーズの舞台裏 カルト時代劇に賭けた男たち』(洋泉社)に記述されている。, 1980年(昭和55年)頃に京都の自宅を引き払い[13]、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由で[14]東京・帝国ホテルの一室で生活を送っていた[13]。その後も精力的に舞台に出演し、1993年(平成5年)に文化功労者、2000年(平成12年)に女優としては初めての文化勲章を受章した。, 2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第5位になった。2014年(平成26年)発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている[15]。, 2002年(平成14年)4月に脳梗塞を発症、この年を最後に公の場に姿を見せることはなかったが[13]、親交のあった松井誠によれば、2009年(平成21年)の時点では復帰を目指してリハビリに励んでいたという[16]。最後の舞台は2001年(平成13年)に行われた『桜の園』の朗読会で、最後のテレビ出演はNHK教育テレビの『芸能花舞台』(2002年放送)だった。, 2012年(平成24年)7月9日、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で死去。95歳没。[13][17]。戒名は「寳光院天猷妙津大姉(ほうこういんてんゆうみょうしんだいし)」(「妙」は正確には玄に少)[18]。「宝の光」や「遥(はる)かな天を描く」「妙(たえ)なる潤い」などの意味が込められている。, 葬儀には、生前に山田を慕っていた俳優らでつくる「養子会」のメンバーである市村正親、西郷輝彦[19]、榎木孝明[19]、萬田久子を始め、司葉子、浜木綿子、三田佳子、草笛光子、北大路欣也、平幹二朗、中条きよし、池上季実子、佐久間良子、宇津井健、八千草薫、朝丘雪路、富司純子、江波杏子、山本陽子、三浦布美子、石井ふく子、中村メイコ、坂東三津五郎、南果歩、沢口靖子、など600名が参列した。, 1958年(昭和33年)のロンドン映画祭に黒澤明が招待され、山田が主演した『蜘蛛巣城』がオープニング上映された。直後に行われたパーティで黒澤がローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー夫妻と会食した際、ヴィヴィアンは山田に対して大きな関心を示し、抑制された演技と発狂する場面でのメーキャップについて、黒澤に繰り返し質問したという[20]。, ニュース映画「日本ニュース」戦後編 第91号にて映画、演劇の入場税引き上げに反対する署名運動に参加している姿が写されている。, 『日本労働年鑑 第24集』によれば、1950年5月26日に「一労働者として」日映演への加入声明を発表したという記述がみられる, 第2話の冒頭のみ本人役で出演。最終話のラストシーンでは清元延寿(仇吉の娘・とんぼ(演:, 山田五十鈴『山田五十鈴 映画とともに』、日本図書センター、2000年、p.161, http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0905I_Q2A710C1000000/, https://web.archive.org/web/20120712003655/http://mainichi.jp/select/news/20120710k0000m040123000c.html, http://www.oricon.co.jp/news/2014204/full/, http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/07/11/kiji/K20120711003653980.html, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=山田五十鈴&oldid=79236172, 逢いみての(1942年、作詞:西條八十/作曲:服部良一、コロムビア)※映画『武蔵坊弁慶』主題歌.
「美空ひばり最後の真実」(さくら舎)、 『女優 山田五十鈴』(集英社インターナショナル) 刊行のお知らせ.

(山田は親権をめぐって月田と裁判で争いますが、敗訴しました) 山田五十鈴の生い立ちと経歴!三大女優と呼ばれるまで! 山田五十鈴は戦前・戦後を飾る恋多き大女優だった 山田五十鈴は、かつての人気時代劇「必殺仕置人」で、三味線引きの女仕事人を妖艶に演じて、往年の大女優としての貫禄を見せつけました。
今回は、山田五十鈴さんについて、ご紹介したいと思います。 目次1 山田五十鈴の娘は?1.1 母・山田五十鈴と娘・嵯峨美智子の確執1.2 娘の最後、2週間あっても駆け付けなかった母の心中とは2 若い頃が … しかし、彼女が女優として一世を風靡した、戦前~戦後の活躍を知る人は、今ではほとんどいません。山田五十鈴は、1917年生まれ。2012年に、95歳で波乱の生涯を終えています。父は新派の男優、母は大阪北新地の売れっ子芸者で日舞や音曲の名人だった女性で、自らも幼い頃よりこれら諸芸を習っていた山田五十鈴。後年、芸術祭大賞の他、数々の賞に輝いた芝居「たぬき」は、これら諸芸の精進の賜物です。, 1930年、13歳の山田五十鈴は、日活の太秦撮影所に入所します。すると、内田吐夢「仇討選手」や伊丹万作「國士無双」「武道大鑑」、山中貞雄「盤嶽の一生」など、当時の名だたる監督の作品に立て続けに出演し、まだ十代半ばでトップ女優に登りつめました。, 1934年に大映に移籍した山田五十鈴は、翌年、二枚目俳優・月田一郎の子を身ごもり出産。このとき生まれた女の子が、後に凄艶な美人女優となり、やがて破滅の道をたどる嵯峨美智子です。大映時代の山田五十鈴は、溝口健二監督の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」という名作に出演した後、1938年に東宝へ移籍します。, 稀代の二枚目俳優・長谷川一夫と三味線弾きの夫婦に扮した、川口松太郎原作・成瀬巳喜男監督の「鶴八鶴次郎」は大ヒット。この長谷川一夫との出会いが、山田五十鈴を舞台女優の道へと誘います。戦前に月田一郎と別れた山田五十鈴は、戦後、衣笠貞之助監督と同棲の後、新劇出身の加藤嘉と電撃結婚。1954年に離婚し、またすぐに俳優の下元勉と結婚しますが、数年で離婚しています。, 山田五十鈴は、30代から40代にかけての女盛りを華々しく過ごしますが、この時期は、女優としての充実期でもありました。小津安二郎「東京暮色」、黒澤明「蜘蛛巣城」「どん底」、市川崑「ぼんち」など、戦後の名監督全てと仕事を共にしたといっても過言ではありません。1960年以後は、本格的に舞台に進出。水谷八重子や杉村春子とともに、日本の三大女優と呼ばれるようになります。, 月日は流れ、時代はテレビの時代に。「必殺仕事人」に出演した時、山田五十鈴は、すでに60歳を迎えていましたが、さらにその後も30年あまり女優として活動を続け、2000年には文化勲章に輝いています。まさに、生涯を女優に捧げた人生でした。, 山田五十鈴は、生涯に4度結婚しただけでなく、多くの恋を重ねた女性でした。それは、相手の地位や名声、インテリジェンス、また相手の美貌まで全て、彼らの持っていたさまざまな才能に惚れたからではなかったでしょうか。貪欲なまでに、その才能を吸収して女優としての糧とする、ある種の女優独特の魔性を持っていたと考えられます。, 今でいうならば、さしずめ大竹しのぶのような……。最初に結婚した月田一郎は、法政大学を辞めて松竹蒲田撮影所に入った、都会的な二枚目インテリ俳優でした。大映に移籍してきた彼に、まだ16、7歳だった山田五十鈴は、一気にのめり込んで子供を身ごもり結婚します。, しかし、山田五十鈴が、溝口健二監督作品などに出演して大女優としてステップアップしていったのに対して、月田一郎は俳優として大成できず、1942年、2人は離婚します。そしてすぐに、映画プロデューサーの滝村和男と結婚しますが、この結婚も1年あまりで破局しました。, 山田五十鈴は、戦後すぐ、明治の大女優・松井須磨子を描いた「女優」(1947年)に出演。この作品を演出した、20歳も年上の衣笠貞之助監督と同棲していましたが、1950年になると、新劇出身の俳優で、晩年の枯れた老人役などでも有名な加藤嘉と電撃結婚。日本的な女優の代表であった彼女が、加藤嘉の影響で左翼運動に身を投じ、一時は人民女優と称されて、映画界からレッドパージの対象となります。, しかし、その熱も冷めると、1954年に離婚。その後すぐ、劇団民藝の創立メンバーである下元勉と結婚しますが、数年で離婚してしまいます。そして1960年代以降、映画や舞台にて円熟期を迎えた山田五十鈴に、表立った男性関係はなくなり、以後死ぬまでの半生を芸道に邁進しました。, 山田五十鈴にとって、人生の大きな禍根は、元夫・月田一夫の元で育った娘・嵯峨美智子でした。嵯峨美智子は、両親の美貌を受け継ぎ、この世のものとも思われぬほど妖しい美しさを秘めた娘に成長し、1952年、17歳で東映からデビューします。しかし2人は、撮影所で顔を合わせても、嵯峨美智子が実の母を「山田さん」と呼び、山田五十鈴もまた実の娘を、他の新人女優と同じく厳しく接したようです。, 嵯峨美智子は、その凄艶な美貌でカルトな人気を誇り、将来が期待されましたが、大女優・山田五十鈴の娘としてのプレッシャーと確執に耐え切れなかったのでしょうか。金銭トラブルや薬物中毒、失踪を幾度も繰り返し、やがては芸能界から消え去ります。そして最後は、タイのバンコクでクモ膜下出血のため、独り客死しました。57歳でした。その時、山田五十鈴の心中は、いかばかりであったでしょうか。, 山田五十鈴と娘嵯峨美智子との確執と悲劇は、広く一般知られていますが、芸能界にまことしやかに伝えられる驚愕のエピソードが、もう1つあります。昭和の時代に映画・演劇界を席巻し、また恋多き女優としても名を馳せた太地喜和子が、山田五十鈴の隠し子だったという話です。, しかし、この話の出どころをたどると、太地喜和子本人が、事あるごとに、「私を誰だと思ってんの。あたしの母親は山田五十鈴なのよ」と語っていたからのようです。確かに太地喜和子は、養父母に育てられ、実の親を知りません。しかし、養父母は、この件を完全否定しています。, その女優としての華や恋多き生き様が、山田五十鈴とよく比較されもし、本人もまた山田五十鈴を敬慕していた節もあった太地喜和子。しかし、決定的に2人が異なるのは、山田五十鈴は、決して恋に溺れることなく女優を貫いたのに対し、太地喜和子は、常に恋にすがり愛に溺れ、最後は、伊豆の海でまるで自死したかのにように亡くなったことです。, 1993年、享年48歳。それは、山田五十鈴が色恋から離れ、芸道に邁進し始めた歳でした。京都では、長く撮影所近くのしもた屋に独りで住んでいた山田五十鈴。撮影が終わると、お気に入りの若い制作作家が家まで送り、時には、彼女が眠りにつくまで酒の相手をしていたとか。, そして1980年頃には、京都の自宅を引き払い、余生を東京の帝国ホテルの一室で暮らしていたそうです。女優として90年近くを生き、人気と名声をほしいままにした山田五十鈴の晩年は、恐ろしいほどの孤独との闘いでした。今、女優と呼ばれる人たちの中で、彼女ほどの気概と覚悟を持ちあわせた女優は、いったいどれほど居ることでしょうか。, 個性派美人女優の宝生舞が引退した理由とは?「ぼくらの勇気 未満都市」が復活でユーリ待望論も!, 《斜め上からこんにちは》は芸能人や有名人の方々への応援メッセージをお伝えしているブログです。, 現在当サイトではpush通知を導入しております。 通知の解除方法については、こちらの記事をご覧ください。. 鹿児島県出身。映画文筆。

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